2010-02-01から1ヶ月間の記事一覧
昭和53年の8月から9月にかけての中国東北部の旅 (旧満州)で大連にも行ったが、当時の大連は今とは まるで異なり、町には牛の糞があちこちに落ちていた。 荷物を運ぶにも移動にも牛舎が中心で、石油を組み あげるポンプも今のコンテナーを積みあげるよ…
昨日の良い天気に誘われて大分県・上津江に行って きた。熊本県側からは、菊池市と県境なのでそちらの コースを通って行ったのだが、今まで気が付か なかったのだが、なんと小さいが滝があるではないか! それも6日(土曜日)までの寒さで凍っていて つらら…
昭和53年8月から9月にかけての中国東北部 (旧満州)の旅、瀋陽(旧奉天)と言う町の 並木道はなんと松だった。これは珍しい存在で 国鉄・瀋陽の駅前から市の中心部までの間見事に 手入れされていた松にはびっくり・・・。 ここ瀋陽の大学医学部の中国ハ…
昭和53年8月から9月にかけての中国東北部 (旧満州)への旅、ハルピンでは市の公開堂で 一般庶民と一緒にサーカスと演劇を鑑賞した。 サーカスは中国の国技とも言えるもので、 人間ピラミットや曲芸自転車乗りや、皿廻し などが披露され、演劇は当時は中…
昨日は山鹿の「百華百彩」と言う催しについて 紹介したが、山鹿の冬の観光客を相手にしての お祭りだが、この時期は町の中心部は竹などで 造られた明かりで飾られる。 その仕掛けを今回はご紹介しようと思う。 下の写真の中心部に黒い塊が見えるがこれが照明…
昨日の夜から、私が住んでいる山鹿は 「山鹿灯篭百華百彩」と言う催しが 始まった。これは冬にも観光客に来て もらおうと企画されたもので、街を ”明かり”で飾ろうというもので、 八千代座を初めとして、写真のように 夜の街をライトでクローズアップしよう…
昭和53年8月から59月にかけての中国東北部 (旧満州)への旅、ハルピンはまさにロシアの 町という感じで、松花江と言う川を挟んで 対岸はロシア、ここでは中国の海軍が船遊びが できるように海員クラブがあり、私たちが イメージしていた中国とは異なり…
私は地名と人名ほど読むのが難しいものは ないと思っている。熊本市の中心部にある マインストリートは”下通り””上通り”と 言うが読み方は「しもとうり」「かみとうり」と 濁らないのだ。 熊本と言ったら”加藤清正”が有名だが さて、おのバス停は何と読むか…
昭和53年8月から9月にかけての中国東北部 (旧満州)の旅6日目は、北京空港から ローカル飛行機でハルピンへ向かったが、この 飛行機はソ連製ではないかと思うのだが、 15人乗りくらいのもので、われわれと通訳が 乗ったら満員という状態だった。いわ…
私は花の名前はほとんどわからななかったが インターネット・ラジオの番組「夜はともだち」で アシスタントを手伝ってくれちる”つばきさん”と 知り合ってから少しずつ花の名前を覚えるように なった。と言うのも、彼女が活け花に興味があり、 いろいろな花を…
私は何故かこの季節に見かける枯れ木が 好きなのだ。それぞれの木に特徴があり、 なんとも言えない姿がある。昨日の”読売新聞” のコラム「四季」と言うところで、長谷川權 さんが「詩を吹いて冬木に言葉咲かせんか」 と言う上田五千石さんの俳句を紹介してい…
昭和53年8月から9月にかけての中国東北部 (満州の旅)への旅、”万里の長城”はさすがに すごかった。観光客用に約1キロくらい整備 されていて歩けるようになっていたが、とにかく 急坂で這うようにして登らないと登れない。 やっとこさ整備してある終点…
さて今週も写真に挑戦してみようと思います。 まだまだ未熟なので失敗作も多々ありますが、 しばらくはそれも掲載しますのでお見苦しい ことがあると思いますが、お許し下さい。 今回は熊本城を守る役をしていた”鉄砲隊”が 住んでいたと言われる菊地郡匊陽町…
昭和53年8月から9月にかけての中国東北部 (満州)へのフリージャーナリスト集団の旅 だが、いよいよ三日目は”万里の長城”への旅 だったが、北京より列車で案内された。沿線は 広大な平原の畑で、遠くに山など全く見えない。 それもコウリャン畑が延々と…
昭和54年2月のメキシコ行きは貴重な体験だった。 たまたま富山の放送局でテレビの仕事をしている時に 知り合った人の兄弟がメキシコのいるので会いに 行くというので、それに便乗させてもらっての旅行だった。 当時私は富山でローカルラジオとテレビの仕…