ラジオ村・村長の旅日記(012)

 親父も海外から痩せこけた姿で帰ってきた。こんな事がきっかけか
我が家は東京都の西の端、吉祥寺と言う町に引っ越した。いわゆる
武蔵野と言われた緑の多い地区で、学校もお陰さまでその吉祥寺に
ある成蹊学園と言うところの中学部に入学でき、しばし親の元から
の生活が始まった。
 我が家の筋向いは”前進座”と言う劇団の小屋もあり、五日市街道から
ちょっとは入ったところで静かな環境だった。戦後の混乱で家を変わる
人が多かったが、我が家も大きな家に住んでいると他人に家、いや部屋を
貸さねばならないと言うお触れが出たとかで、おふくろはそのうわさに
乗り、仕方なく庭が大きくて家が小さいところを選びここに落ち着いたので
吉祥寺の家は庭だけはバカに広い家だった。


 親父は専門が肥料屋なので、これはしめたと思ったのだろう、実験を
かねてその庭にいろいろな野菜を植え、肥料のきき具合を調べはじめた。
そんなわけで我が家は当時は農家と同じで、自分の家で食べる野菜は
捨てるほどあり、八百屋から野菜は買ったことがない。


 トマオ、ナス、キュウリ、大根、人参、サツマイモ、じゃがいも
しそ、小松菜、なんでもござれだ。それも肥料がきき過ぎたのでは
なかろうかと思うほど、どれも大きな野菜が出来るのだ。しかし
もぎたての野菜のうまさは格別だ。親父も私も不精者なので、
畠は草ぼうぼう、その草の間にそうした野菜が育っていたのだ。
農家の風景とはおよそ違うなんとも言えない畠が存在していた。