ラジオ村・村長の旅日記(013)

 さて本格的に旅らしいものをやったのは、修学旅行だろう。出掛ける前に
その場所について、建造物についてなどの歴史を勉強する。関東の場合は日光へ
行く事が多かったが、何処をどう廻ったか、どんな天気だったか、何を食べたか
全く覚えていない。いわゆる”枕投げ”と、女風呂を覗きに行こうとしたこと
(実際には実現していない)ぐらいしか覚えていない。
 ここに日本の旅の大きな問題が潜んでいると私は思っている。旅には感動が
つきものなのに、前もって調べているので確認作業をしているようなものだ。
確かに感動のごときものはするのだが、「これだ!!・・・」と言う程度の
感動だ。


 たとえば夕陽を見ても、そこから立ち去る事が出来なくなる、おいしい
食事に感動する、窓の外に大きなクモの巣を発見して、しかもそれが朝露に
ぬれて光っていたりするとじっと見つめたりして時を過ごす「ものだが、
そんな体験はこうした旅にはない。
 こんな事が旅の出発点なので、アンアン、ノンノンなどに写真入りの
国内、国外のショッピング、買い物案内が受けるのだ。これを見て
旅をして「あった!!!・・・」と感動?する。もし発見できないと
「雑誌社のウソつき!」と言う事になる。実はお店の場合はつぶれると
言う事があり、特に外国の場合は(韓国などでは一年でつぶれるという
こともあった)それがひどい時があったが、そんあ事を知さない人に
とっては「ウソつき!」と言うことになる。
 つまり、旅にはいろいろな体験があり、時には失敗もあり、だからこそ
楽しいのだ。全て用意された旅ではベルトコンベアーに乗って旅をして
いるだけで、発見なんてあるわけもない。これが旅だろうか?
  しかしいつしか日本人は用意された旅に慣らされてしまった。
その原因が修学旅行にあると私は思っている。