ラジオ村・村長の旅日記(067)

 私にとって山は戦争中の疎開を含めて育ったところのせいか
親しみが持てる存在なのだ。その仲で”富士山”は中学生時代に
静岡県清水市三保の松原が学校の水泳の訓練場所でもあった
ことから近くにある”日本平”と言う丘によく登り、そこから
いつも眺めていたと言うこともあって、多くの人はあこがれの山
と言う存在だが、私にとっては非常に親しみ深い山だった。
 そんあある日、仲間から富士山の登らないか、と、誘いがあり
即座に「行こう・・・」と返事をしたものだ。それが私がなんと
35歳の時、昭和45年の7月中旬だった。天気に恵まれ静岡県側の
富士市から登る事になった。当時は既に新五合目まで自動車道路が
開通しており、そこまで車で行き、そこの駐車場に車を止めての
登山となった。
 空には雲一つなく、頂上まではっきりと富士山が見えると言う日
だった。五合目ですでに植物は見当たらず、ごつごつした岩の
くじけたような凸凹道を、と言っても登山道路らしいものはなく
人が歩いて自然に出来たような登山道?を、かなり早い速度で
登ったような気がする。みんなそれほど元気だったのだ。そのため
登る後には砂煙りとでも言えるようなものが立ちこめる。降りて
くる人をずるずる滑るように降りてくるので、やはり砂煙りは
たちこめる。こんか状態で途中の山小屋まではなんとかすいすいと
登ることが出来たのだが、ここからがぐっとテンポが落ちたのだ。
やはり気圧、空気のせいだろう、特に最後のところが大変だった。
富士市からの登りではここは急な岩になっているので鎖に伝って
登らねばならないのだが、その鎖に掛ける足が上がらないのだ。
くたびれているわけでもないのだが足がいうことをきかない。
これは初めての体験だった。私たちばかりではない、ほとんどの
人がそうなのでみんな先の人が登るのを待って入る状態なのだ。
私もどうやら這うようにして頂上に登りついた。
 しかし不思議なもので、頂上に登るとしゃきっとして登った!!
とはしゃいだのを覚えている。何時間で登ったかは覚えていないが、
とにかく朝早く登り夕方のは駆け降りてきた。なにそろそんなつもりは
なかったのだが、体が前のめりになり自然と駆け降りる体勢になって
しまうのだ。35歳にしての富士登山はこうしてあっけなく終わった。